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【白鷹町指定史跡】
所在地/白鷹町鮎貝
比高/15メートル
分類/平山城
年代/応永年間~天正15年
城主/鮎貝氏
【歴史】
写真予定
【国指定史跡】
所在地/米沢市大字舘山ほか
比高/30~35メートル
分類/山城(のちに平山城)
年代/15~17世紀前半
城主/新田氏、伊達氏、上杉氏
【歴史】
写真予定
所在地/川西町中小松
比高/0~2メートル
分類/平城
年代/14世紀?~16世紀末
城主/桑折氏、牧野氏ほか
【歴史】
写真予定
所在地/上山市大字中山字上郭弐
比高/80.9メートル
分類/山城
年代/永禄~元亀年間
城主/中山弥太郎
【歴史】
写真予定
所在地/上山市河崎字反田
比高/111.3メートル
分類/山城
年代/応永~天文年間
城主/上山満長
【歴史】
写真予定
【国指定史跡】
所在地/山形市霞城町ほか
比高/なし
分類/平城
年代/延文2年(1357)~明治初期
城主/秋元氏、水野氏ほか
【歴史】
写真予定
所在地/山形市大字長谷堂字内町
比高/100メートル
分類/山城
年代/15~17世紀前半
城主/伊達家臣小梁川氏、最上家臣志村氏、坂氏
【歴史】
写真予定
所在地/天童市大字天童字城山
比高/130メートル
分類/山城
年代/15~16世紀代
城主/天童氏
【歴史】
写真予定
【国指定史跡】
所在地/大江町大字左沢字元屋敷・楯山・裏山
比高/110メートル
分類/山城
年代/14~17世紀前半
城主/左沢氏、最上氏
【歴史】
写真予定
所在地/東根市本丸・小楯・西楯等
比高/約10メートル
分類/平山城
年代/15~17世紀前半
城主/東根氏、里見氏
【歴史】
写真予定
所在地/尾花沢市大字延沢字古城山
比高/約120メートル
分類/山城
年代/16~17世紀
城主/延沢氏
【歴史】
写真予定
【山辺町指定史跡】
所在地/山辺町畑谷字館山
比高/70メートル
分類/山城
年代/15~17世紀前半
城主/最上家臣江口氏
【歴史】
写真予定
所在地/寒河江市白岩
比高/稲荷山楯:40メートル・上楯山楯:70メートル
分類/山城
年代/15~17世紀前半
城主/白岩氏、最上家臣松根備前守
【歴史】
写真予定
所在地/真室川町大字内町字古城
比高/約55メートル
分類/平山城
年代/16世紀後半~17世紀前葉
城主/鮭延氏
【歴史】
写真予定
所在地/最上町大字本城字城山
比高/約80メートル
分類/山城
年代/16世紀後半~17世紀前葉
城主/細川小国氏、蔵増小国氏
【歴史】
写真予定
【県指定史跡】
所在地/大蔵村大字清水字比良
比高/約45メートル
分類/平山城
年代/16世紀後半~17世紀前葉
城主/清水氏
【歴史】
写真予定
所在地/酒田市亀ヶ崎1丁目
比高/0メートル
分類/平城(水城)
年代/15世紀~幕末
城主/最上氏、酒井氏ほか
【歴史】
写真予定
【県指定史跡】
所在地/酒田市本楯字新田目
比高/0メートル
分類/平城
年代/不明
城主/留守氏
【歴史】
写真予定
所在地/酒田市砂越字楯之内
比高/0メートル
分類/平城
年代/15世紀代か~
城主/砂越城
【歴史】
写真予定
所在地/鶴岡市小国字町尻
比高/235.5メートル
分類/山城
年代/16世紀代か
城主/最上氏・酒井氏など
【歴史】
写真予定
所在地/大浦城:鶴岡市大山3丁目
比高/39メートル
分類/平山城
年代/16世紀代か
城主/最上氏・酒井氏など
【歴史】
写真予定
上杉家について
【上杉家の始まり】
上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜ったのが上杉氏の祖とされている。
【上杉 謙信】
上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国大名です。1530年に越後国の守護代を務めていた長尾家の4男として生まれ、初めは長尾景虎と名乗っていました。その後、その後、兄の養子となる長尾家の家督を継ぎ、当時関東管領だった上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と改名をして関東管領の役職も引き継ぎました。
また、上杉謙信はその生涯で70回も戦ったと言われており、その中で敗北したのは1回(あるいは2回)だけだったと言われてます。謙信が戦った相手には武田信玄や北条氏康、織田信長といった有名な武将をはじめとして、蘆名盛氏や能登畠山氏、越中一向一揆など様々な勢力がいました。
特に武田信玄との5回にわたる「川中島の戦い」は有名ですね。その上で謙信が凄かったのは、こうした戦いで一度も敗北と言える戦いがなかったこと。そのため、戦国武将たちは彼のことを「越後の虎」「軍神」などと呼び、その武勇をおそれ、たたえました。
また、上杉謙信は戦国大名としては珍しく、生涯で1度も結婚しなかった人物でした。そのため「上杉謙信は実は女性だったのでは?」という説もあります。ただ、女性と1度も関係を持たなかったかどうかは怪しく、きちんとした資料はありません。
【上杉 景勝】
24才。上杉謙信亡き後養子になる。
32才。豊臣秀吉の臣下となる。
43才。5大老の一人となる。
44才。秀吉が死去し、徳川家康と対立する。
46才。関ケ原の戦いで徳川家康が勝利したため降伏し、米沢30万石に減封され、米沢藩主となる。
69才で死去。
家臣の直江兼続も有名。
【上杉 綱勝】
謙信から4代目の綱勝(つなかつ)が若くして亡くなったときも子どもがいませんでした。このときは吉良(きら)家から養子をとって、なんとか上杉家は続きました。吉良家から来た本家の5代・綱憲(つなのり)は、吉良上野介(こうずけのすけ)の長男でした。
贅沢三昧の吉良へ上杉家がお金を出して大分財政を悪くしたというお話もあります。
【上杉鷹山】
「成せばなる 成さねばならぬ 何事も」 改革者の功績を振り返る
蚕(かいこ)のまゆ
上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国(ひゅうがのくに~宮崎県)高鍋藩主「秋月種美(たねみつ)」の次男として、江戸で生まれました(幼名「直松」)。母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(つなのり)」の孫娘でした。 宝暦10年(1760年)に八代目米沢藩主「上杉重定(しげさだ)」の養子となり、元服(成年の儀式)の際に名を「治憲(はるのり)」とします。翌年の明和4年(1767年)に、家督を継いで弱冠17歳で九代目米沢藩主となった治憲(鷹山)は、傾いた米沢藩を救うため、まず「大検約令」発し、役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革への第一歩を踏み出します。 その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていくのですが、最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋(あおそ)を原料とした縮織(ちぢみおり) に始まり、これらを基として養蚕(ようさん)・絹織物へと発展していきます。 鷹山という名前にしたのは、52歳からで、文化3年(1806年)には、56歳となった鷹山が「養蚕手引」を発行・配布します。文政5年(1822年)に72歳で死去しますが、生涯を米沢藩の人々のために尽した功績は、初代 上杉謙信と並んで後世に語り継がれています。